日比谷公園・皇居外苑散歩

お散歩

 2020年12月初旬、紅葉が終わりかけている頃でしたが、都心のど真ん中を散歩してきました。天気も良くとても気持ちの良い散歩でした。もちろんマスク装着のアルコール所持です。

本日のルート

ルートJR新橋駅 ⇒ 烏森神社 ⇒ 日比谷公園 ⇒ 皇居外苑 ⇒ 行幸通り ⇒ JR東京駅
移動距離6.67km
移動時間02h35m
平均速度2.96km/h

出発駅:新橋駅

 新橋というとサラリーマンの聖地、またはメッカなんて呼ばれていますよね。地下鉄やゆりかもめの乗り換えもあるので、駅の構造も若干複雑な印象があります。周辺には安い飲み屋さんが多いですよね。店員さんは国際化が進んでいます。数年前に定期的に病院の診察を受けていた関係で新橋駅は何回か使ったことがあります。今回、新橋駅を出発駅にしましたが、その理由の一つに新橋駅に「烏森口」という出入口がありますが、その由来は如何に?というちょっとした疑問からです。地図をみると「烏森神社」というお社があります。折角なので烏森神社に参拝がてら、日比谷公園・皇居外苑を散歩して回りたいと思います。

 なので、南口改札から降りて烏森口へ向かいます。

駅の中は、天井工事か耐震工事か分かりませんが、しばらく工事をしてますね。JRだけでも上野東京ライン京浜東北線山手線横須賀線が止まるので、改札付近は人の往来が激しいです。

IZA、出発。

烏森神社

 はい。烏森からすもり神社に着きました。ビルの間の横丁のような雰囲気のところにある、こじんまりとしたお社ですが、周辺の住民や働いているサラリーマンと思しき方々が引っ切り無しに参拝にいらっしゃいます。観察していると皆さんとてもマナーがいいです。私も見習わなければです。

平安時代・天慶3年(940年)、平将門が乱を起こしたとき、むかで退治の説話で有名な鎮守将軍藤原秀郷が武州のある稲荷に戦勝祈願したところ白狐がやってきて白羽の矢を与えた。その矢を持って速やかに東夷を鎮めることが出来たので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現れて、神烏の群がる所が霊地だと告げた。そこで桜田村の森まで来たところ、夢想の如く烏が群がっていたのでそこに社頭を造営したのが当社の起こりである。

烏森神社案内板より引用

案内板からの話ですと、創建から1000年近く経つ歴史あるお社であることが分かります。

参拝後、書置きではありますが、御朱印を賜りました。

日比谷通り

 烏森神社に参拝し、日比谷公園に向けて日比谷通りを歩きました。通りの両側はビルビルビルです。私の職場は山に囲まれたところですので、ある意味、都会の道路は新鮮です。歩道も広く、ビル風も心地よいです。市政会館が見えてきたら、もうすぐ日比谷公園の入り口です。

日比谷公園

 20年以上ぶりの日比谷公園です。日比谷野外音楽堂で「エレファントカシマシ」のライブに来た以来です。その時は有楽町駅から歩きましたね。それはそれは暑い夕方でしたが、周りのビルから丸見えじゃね~か。こんなところに働いている奴はうらやましいな。。。なんて思っていました。でもエレカシに興味のない、しかも残業中のサラリーマンにとっては只々騒音にしか思わなかったでしょうね。エレファントカシマシ、今でも頑張っていますが、ボーカルの宮本が、きっと良い奴なんだろうなと勝手に思っています。

 幕末まで松平肥前守等の屋敷地で、明治初期には陸軍練兵場となっていたところでした。当初から近代的な「都市公園」として計画・設計・造成された本格的な公園であると同時に、日本初の「洋式庭園」として公園設計者(本多静六等)の意気込みが随所に感じられます。そして、それは今日に伝えられ、広く利用されています。

 今日に至るまでに、関東大震災や太平洋戦争により改修等をおこなってきましたが、心字池・第一花壇や雲形池周辺は開園当時の面積がそのまま残っています。花壇には一年中、色鮮やかな四季の花が咲き、公園を訪れる人々の憩いの場になっています。

日比谷公園サービスセンター 案内板より

烏帽子石

日比谷公園のおそらく一番南側の入り口であろう場所から入ると、すぐに烏帽子石があります。

この石は、江戸時代、江戸城外郭市ヶ谷御門の石垣の中にあったもので、形が烏帽子(昔、元服した男子のかぶりものの一種)に似ていたため、人々から烏帽子石と呼ばれて珍重されていたものです。

明治時代、道路拡張に伴い石塁が取りこわされた際、永く保存するためこの公園に移されました。

烏帽子石案内板より

日比谷公会堂

雰囲気のある建物です。脇のイチョウは綺麗に色付いていました。

日比谷公園第二花壇

ソーラー時計の後ろ側が第二花壇になりますが、立ち入り禁止の広場がありその外周りに季節折々の花が植えてある様子です。

バラが綺麗でした。私の他にも何人かの方々がバラを愛でていました。残念ながら近くに寄ることができなかったので、香りを楽しむことはできませんでしたが、お花は癒されます。

そして、花壇を見ながらボーっとできるようにベンチも多くあります。ちょっとベンチが密ですが。。。ベンチには銘板が打ってあり、メッセージが書かれています。最近、色々な場所でベンチにこのようなメッセージが見られるようになりましたが、ベンチ設置の一部資金が寄付で賄われているのでしょうか?いいですよね。自分も設置してみたいです。そのベンチに座ってちょっとでも寛げて幸せな気分になってほしい。

 平日だからなのか、コロナ対策の為なのか、人が全くと言っていいほど居ません。まあ。私はノンビリできるのでいいのですが。

日比谷公園第一花壇

 第二花壇に比べると狭いですが趣があります。ベンチにも結構座っています。サラリーマン風。デート中の若者カップル。チャリダー。上半身全裸男。。。等々、それぞれがそれぞれの人生のひと時をここ日比谷公園第一花壇のベンチで過ごしていました。ふと見ると、スズメちゃんが枝に頑張ってしがみ付いている。何のため?世界平和のための警備をしている?

そして、やる気のないペリカン。いやいや。きっと水の節約を考えた人間の仕業に違いない。

ナンテンの実。これを見ると冬だな~って思います。

そして、監視台の上(岩の上)で世界平和を守るスズメ隊員が監視しています。

皇居外苑

皇居外苑は昔よく車で通った道ですが、初めて徒歩でやって参りました。空が広い。ビルが見えますがとても広いですね~。外苑をつっきる道からは松松松が見えますが、外苑を歩いていても、松松松。目に入りますね。

桜田門(重要文化財)

 初めて来ました桜田門。車からはよく見ていました。江戸城の門の中では、歴史上、1位2位を争うくらい有名な門ではないでしょうか?でも私が知っているのは、凱旋門。。。羅生門。。。水戸黄門。。。ごめんなさい。でも真剣に思い出しても半蔵門・虎ノ門・和田倉門くらいですね。江戸城にはいくつ門があるのでしょうか。ちょっと気になります。

 来てみて初めて知りましたが、一般人が知っている桜田門はこの外桜田門のことを言い、内桜田門というものがあるんですね。また、この外桜田門も外桝形という2重構造(分かりやすく言うと外門と内門の2段構え)になっているんですよ。

 さっきまでランナーが走り抜けて、観光客も居たのに奇跡的に人物が入っていない写真を撮れました。

旧江戸城 外桜田門

現在この門は桜田門と呼ばれていますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りは桜田郷と呼んでいたことに由来します。

 外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外桝形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました(320坪)。建築されたのは寛永年間(1624~44)とされ、現存する門は、寛文三年(1663)に再建された門がもとになっています。大正十二年(1923)の関東大震災で破損し、復元されました。万延元年(1860)三月三日、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)。

桜田門案内板より引用

皇居正門

 桜田門は警備されている感じは全くありませんでしたが、さすがに正門前は警察官が警備にあたっています。別に悪事を働くことなんかサラサラ考えていませんが、警察官に監視されていると挙動不審になりますね。写真も念のため、許可をもらいながら撮りました。この門の中に天皇・皇后両陛下がいらっしゃると思うと、身が引き締まります。

 正門の写真を撮る時は、おそらく3方向から警察官に見つめられていました。望遠レンズを延ばす時も心の中では「小細工をしてる訳ではありません。レンズを只々延ばしているだけです。」と叫んでいました。カメラを落としただけで取り押さえられたらやだな~とビクビクしてました。久々に極度の緊張でした。

正門と二重橋

ここは、皇居の正門に当たります。手前に見える橋が「正門石橋」、奥の橋が「正門鉄橋」です。後方に、現存する数少ない江戸城の櫓の一つである伏見櫓が見え、その右手には、樹木に隠れて見えませんが、宮殿があります。

正門鉄橋は、かつては木橋で、その下に橋桁を支えるもう一つの橋があったため、二重に架けられた橋という意味で「二重橋」と呼ばれています。

しかし、正門石橋と正門鉄橋の二つの橋を総称して「二重橋」と呼ぶ人も少なくありません。

これらの橋は、天皇陛下が国会開会式などのため外出される際や、外国の君主、大統領、大使来訪などの特別な場合のみ使用されますが、新年や天皇誕生日の一般参賀では一般の方々も渡ることができます。正門石橋と正門鉄橋が重なり、その奥に伏見櫓が見える皇居外苑からの眺めは皇居を象徴する景色として親しまれています。

正門案内板より引用

坂下門

 ここも複数の警察官が警備してますが、ここは中に用事のある一般人の通用門を兼ねているように思います。写真を撮ろうと思ったら厳重な通用口から橋を渡っていく女性がいました。門も開いたままで、若干、中の様子が伺えます。門の中には小さい子供の姿があります。裕仁親王ではないと思うので、誰だか気になります。

 門の名は、西の丸から低地に降りる坂下にあることに由来します。この門は、江戸城西の丸造営直後に築造され、江戸時代は木橋が架かっていましたが、現在は土橋となっています。現在、正面から見ると渡櫓門があり、本来は、高麗門を備えた桝形でした。1887年(明治20年)に高麗門が撤去され、渡櫓門を現在の場所に設置しました。

 現在の皇居外苑は、江戸時代は西の丸下と呼ばれ、幕府老中などの屋敷がありました。明治維新後は一時、明治政府の官衙かんが・兵営に利用されましたが、明治10年代以降、広場として現在に至ります。

坂下門案内板より引用

桔梗門(内桜田門)

 門から入る人は見当たりませんが、出てくる人がいます。ほとんどがランナーのようなカッコをしています。地図でみると皇居東御苑につながっているので、東御苑の出口になっているのかもしれませんね。東御苑に行く機会があったら試してみたいです。

桔梗門(内桜田門)

この門は、江戸城本丸南口の通用門で、本丸へ向かう際には、大手門と並ぶ登城の門でした。門の警備は6~7万石の譜代大名があたっていました。内桜田門とは、外桜田門(現在の桜田門)に対しての呼称ですが、江戸時代から桔梗門という別称が用いられていました。門は1614年(慶長19年)に造られたもので、桔梗濠沿いの石垣は1620年(元和6年)に造築されています。現在も手前の高麗門と右手の渡櫓門からなる桝形門が残っています。

東京駅

東京駅に着き、ここで今回の散歩は終了です。ご覧いただきありがとうございました。

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