2020年の秋、旧古河庭園に行った翌週の平日に、マスクとアルコール消毒液を装備しソーシャルディスタンスに気を付けながら、初めて寛永寺に行って参りました。色んなところで読みかじった情報ですと、江戸城に徳川家康が入城する時に、方位学を元に邪鬼からお城を守るようにお城や街の設計がされたと見たことがあります。お濠が螺旋状にお城を取り囲んでいたり、虎の門が「虎」の方角からわざと外して作ったり。。。寛永寺も江戸城を守るような場所に建てられました。寛永寺は江戸城からみて鬼門(北東)の方向にあります。鬼門からの邪鬼から江戸城を守る為に寛永寺は配置されたんですね。
そんな寛永寺は度々歴史の舞台に現れますね。将軍家の菩提寺であり、徳川慶喜公が大政奉還後に蟄居していた場所であり、上野戦争の舞台にもなりました。そんな寛永寺と所縁のある上野公園を散歩しました。
今回の散歩ルート
JR鶯谷駅 ⇒ 徳川慶喜公墓地 ⇒ 寛永寺根本中堂 ⇒ 開山堂 ⇒ 清水観音堂 ⇒ 不忍池弁天堂 ⇒ 上野大仏 ⇒ JR上野駅
JR鶯谷駅
google map上では、すぐに寛永寺に入れそうだったので北口で降りました。しかし考えが甘かったです。ぐるっと回り込む感じで意外と遠かったです。寛永寺橋という車通りの多い橋からは、東海道線・京浜東北線・山手線が眺められますが、金網越しなのでちょっと残念です。東北・上越・北陸新幹線は地下に潜っています。



徳川慶喜公墓所
徳川慶喜公の墓所は、寛永寺からちょっと離れた谷中霊園の中にあります。慶喜公は亡くなった時には将軍ではなかったので、寛永寺の歴代将軍とは別の場所に埋葬されることになったそうです。何だか可哀そうですね。墓所入り口の右側に簡単な説明書きがありました。
東京都指定史跡 徳川慶喜墓
所在地 台東区谷中7-2寛永寺墓地内
指定 昭和44年3月27日
徳川慶喜(1837~1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第7子で、はじめは一橋徳川家を継いで、後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応2年(1866)、第15代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治35年(1902)には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913)11月22日に77歳で没しました。お墓は、間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に経1.7m、高さ1.7mの基檀を築き、その上には茸石円墳状を成しています。
平成22年3月 建設 東京都教育委員会
徳川慶喜公 墓所 案内板より



寛永寺
今回、寛永寺にお参りするまで知りませんでしたが、上野公園や上野動物公園・不忍池も寛永寺の敷地だったんですね。とても大きな寺院であったことを知りました。また、幕末の上野戦争の舞台が寛永寺であったことも知り、それにより多くのお堂が焼失してしまったことも知りました。
今回は、通用門からお邪魔いたしました。通用門にも立派な三つ葉葵の御紋が入っています。この御紋をみると「水戸黄門」のメロディーが頭を巡ります。


寛永寺概略
山号 | 東叡山 |
院号 | 円頓院 |
寺号 | 寛永寺 |
宗派 | 天台宗 |
創建 | 寛永2年(1625) |
所在地 | 東京都台東区上桜木1-14-11 |
備考 | – |
東叡山寛永寺は、寛永2(1625)年に、幕府と万民の平安・安泰を祈る祈願寺として、慈眼大師天海大僧正によって創建されました。山号は「東の比叡山」の意、寺号は寛永年間に創建されたことによります。後には、第4代将軍・徳川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねることとなりました。また東叡山主に皇族(輪王寺宮)を迎え入れたことにより、江戸時代の寛永寺は格式と規模において我が国屈指の大寺院となりました。しかし幕末の上野戦争で被災し、敷地の大部分は明治初期に上野公園となりました。太平洋戦争後は新たに霊園を造営し広くお檀家を受け入れるなど、伝統を守りながらも多くの人々に親しまれ今日に至っています。
天台宗別格大本山 東叡山 寛永寺 パンフレットより
根本中堂






元禄11年(1698)に建立された当初の根本中堂は、慶応4年(1868)、上野戦争の際に焼失していまいました。現在の根本中堂は、明治12年に川越喜多院の本地堂(寛永15年将軍家光公が建立)を山内子院の大慈院(現・寛永寺)の地に移築し、上野戦争で焼失を免れた東照宮の本地堂の用材も加え、開口十間の本堂として再建されました。秘仏ご本尊の薬師瑠璃光如来は、天台宗を開かれた伝教大師最澄さまが自ら彫られたと伝えられています。
天台宗別格大本山 東叡山 寛永寺 パンフレットより
開山堂(両大師)



開山堂は、天海大僧正を東叡山の開山としてお祀りしているお堂です。また天海大僧正が尊崇していた慈恵大師良源大僧正もお祀りしていることから、一般に”両大師”と呼ばれています。創建は正保元年(1644)、現在のお堂は平成5年の再建です。境内には一本の枝に一重と八重の花が同時に咲く「御車返し」の桜の古木があり、夏には古代蓮(大賀ハス)が見事な花を咲かせ参拝の方々を楽しませています。
天台宗別格大本山 東叡山 寛永寺 パンフレットより
清水観音堂





清水観音堂は当初、寛永8年(1631)に天海大僧正により摺鉢山上に建立され、元禄7年(1694)頃現在の地(桜ケ岡)に移築されました。京都東山の清水寺を見立てた舞台造りのお堂で、国の重要文化財に指定されています。秘仏ご本尊の千手観世音菩薩は、平安時代の比叡山の高僧・恵心僧都の作と伝えられています。
天台宗別格大本山 東叡山 寛永寺 パンフレットより
不忍辯天堂




不忍池辨天堂は、天海大僧正が水谷伊勢守勝隆の支援を得て、比叡山麓の琵琶湖竹生島になぞらえて寛永年間に不忍池に中之島を築き、その地に建立されました。そしてご本尊の八臂大辯財天もまた、竹生島の宝厳寺から勧請しました。現在のお堂は八角の丹塗りのお堂で、中陣の天井には芸術院会員児玉希望画伯による雄渾な龍が、また児玉画伯ご門下の方々によって四季の名花が描かれています。
天台宗別格大本山 東叡山 寛永寺 パンフレットより
上野大仏
上野にも昔、大仏があったということは全く知りませんでした。そして、その名残が現在の上野公園に残っているとは予想だにもしませんでした。行ったことのないところを散歩すると新たな発見があって楽しいです。


寛永8年(1631)堀丹波守直時が創った。建立当時は像高6mあった。大地震で3回、火事で1回と計4回も首が落ちた。その都度再建されたが、関東大震災によって崩壊したのち、現在は、お顔のみレリーフとして保存されている。最近では、合格祈願に訪れる生徒が多い。同じ場所には、大仏復元の拠点として、寛永寺と上野観光連盟によって、昭和42年(1967)パゴタが建立された。
上野恩賜公園 パンフレットより
上野恩賜公園
上野恩賜公園(通称:上野公園)と言えば、美術館に動物園。春はお花見でごった返す。といったことがイメージされますが、今回の散歩でそれ以外の部分も楽しむことができました。そして、小春日和の日差しを木漏れ日として感じながら気持ちよく公園内を散策できました。気持ちよくて楽しくて、知らず知らず笑顔になります。






摺鉢山
上野公園内の正岡子規記念球場の南側に前方後円墳があります。それが摺鉢山と呼ばれています。それほど高くない丘を階段で上ると、平らな広場があります。話が変わって、球場の話になってしまいますが、球場の冠になっている正岡子規ですが東大予備門時代から野球(当時はベースボール)をこよなく愛していたんですよね。昔NHKで放映した「坂の上の雲」でもよく分かりました。香川照之は本当に芝居が見事だと思います。最近では、かの有名なドラマで「大和田常務」を熱演し「お・し・ま・い・DEATH」等のみごとなアドリブが話題になりましたが、「坂の上の雲」での香川照之は正岡子規にしか見えませんでした。この頃から、すごい俳優でした。

公園のほぼ中央、管理所のすぐそばに小高い丘がある。前方後円墳である。今は、イチョウやケヤキ等の大木が多くみられる。
上野恩賜公園 パンフレットより
パンダ橋
パンダ橋を渡って、JR上野駅パンダ橋口で本日の散歩は終了としました。


今回の散歩で、寛永寺はとても広かったことが分かりました。今でも公園や不忍池等に関係している建物が点在していることも分かり、上野公園は、美術館や動物園だけではないことを十分理解しました。公園内もじっくり歩くと色々楽しいということも知ることができました。